消費社会過剰適合者

前回ブログを更新してから何日間か、もやもやした違和感と不安があった。
その原因は

「私には健全な自尊心が必要なのか」
「私は本当の愛を求めているのか」

という疑問とともに沸いてきた。
自分の心に問えば問うほど、欲しいという実感がない。そもそも、「健全な自尊心」も「本当の愛」も、まるでイメージできない。わからないものを欲しいと思う気持ちもわからないのだ。

私は他人に愛され助けられたこともあるし、苦しめられたこともある。
同じように私は誰かを愛することで助けたり苦しめたりしただろう。
私は「誰にも大切にされなかった」と言う資格はない。人間嫌いだと宣言できる自信もない。

しかし、私が与えられたり与えてきた愛は、大して美しくもないし尊くもない、という感覚には少しだけ自信が持てる。
おそらく私は他人に消費されている実感しかないし、消費される以外の愛され方がピンと来ないので、他人を消費する以外の愛し方を知らない。
少なくともそれは「健全な自尊心」や「本当の愛」からは遠いものだろう。

私は自分自身の存在を、使い捨てられるものとしか思えない。
そんな私が実感できる救いは、消費されてきた分だけ消費することだ。

人間は貪り尽くすものだと思っている。
人を好きになることは、人を貪り尽くし使い果たすことと同じように感じる。
前回の日記に書いたように、承認されることを拒絶し他人の承認欲求を満たし、「価値付けられる」側から「価値付ける」側に立とうとするのも、消費する側であることを実感するためだろう。
私はときどき愛することと恨むことの区別がつかなくなるのだが、それはこのような感覚が原因だろう。
私にとって、愛することはそれ自体、加虐だという自覚があるのだ。

それは逆に、私が愛される=消費されることを被虐だと感じているということでもある。
そのことを私は恨んでいる。
つまり、自分が受けた暴力を他人に与えて満足している。

アンウィルソンシェフは『嗜癖する社会』の中で、「見えるものを見ること、知っていることを知ること」の重要性について書いていた。
私が考えるべきなのは見えないし知らない「健全な自尊心」や「本当の愛」についてではなく、消費され消費することしか愛の在り方がわからない、という現実についてである。

そのことに気づいたとき、私は少しだけ襲ってくる無力感から解放され、楽になった。

肯定されたい自己とは

「本当の私」とはどんな姿なのか。
理解され認められたい自分とは何なのか。
それを明らかにするには、抑圧してきた世界に対する不満と期待を自覚する必要がある。
それは普段は意識の上に登らないが、自身の行動原理の根本に関わる問題だ。

「人間なんか嫌いだ。どうせ見捨てられる。」
という人は、人間に見捨てられないことを期待しているからこうした不満を言う。
「神様なんかいないよ。救ってくれないし。」
という人は神様に救われることを期待しているからこうした不満を言う。

悲観的になったり否定的になったり絶望したりするのは、期待の大きさの表れであったりする。
しかし、その期待の内容がもし過剰なものや現実離れしたものであったとしても、当人はそれを与えられるべき報いだと確かに実感し、信じている。

私が理解され認められたい「本当の私」も、おそらくそういったものだ。

「本当の私」と向き合うために自己防衛機能の鎧を捨てた私は、急に無力になった。
今まで他人に否定されるほど沸いてきた闘争心にも似た自信が、まったく感じられない。

むしろ自分の意思が消えてなくなるような感じがする。
自分だけは自分を認めているなんて嘘だったのかもしれない、「本当の私」はからっぽだったのかもしれない、と思うほど自分の存在に実感がない。
自分自身に何の魅力も感じていない。
このままだと廃人になってしまうかもしれない。
他人から逃げた結果自分からも逃げてこのままだと精神的に死ぬような気がしている。
本当にすべてのことに自信が持てない。

新たな勇気が必要だ。

私は世界に対して抱いていた不満と期待をまだ抑圧したままでいる。
それは理不尽で幼稚な要求かもしれない。
しかし、その不満と期待を自覚しないことには、「本当の私」の意思は見えてこない。
肯定されたい自己はわからない。

私を無価値で無意味な存在だとする世界を、否定する勇気がない。
その勇気を出さなければ本当の自信は沸いてこない。
まだ切り替えの努力が足りないのだ。

私を承認する資格

「他人を受け入れ理解し愛を与える」
その努力は私の生きる意味だった。

私に受け入れられ理解され愛されていると他人が実感することこそが、私のプライドを満たした。
しかし、前の日記にも書いたように、それは価値付けされる側からする側になるための策略であり、善意というより自己防衛の方法でしかない。
つまり、相手は私を「承認するに値しない人間」であり、私は相手を「承認するに値する人間」であるという優位性の確認でもある。

しかしこうした関係は必ず破綻する。
私は相手に自分の弱さを投影し、自分のように相手を愛する。自分がかつてそうされたかったように、受け入れ、理解する努力をする。それと同時に、相手に自分と同じ苦しみを与えたくなる。それは、全人類にとって私が無価値であるように、その人も無価値であることを思い知らせたいという、その人にとって重要で大切なものが台無しになってほしいという裏切りの願望だ。

私はいつも大好きで大切なはずの人の挫折と破滅を願っている。
そんな自分に普段は気づかないようにしている。
しかし他人との関係が深くなればなるほどその願望と戦わなくてはいけなくなる。
相手の成功と幸せを願う自分でありたいという意識と、相手の挫折と破滅を願う衝動が葛藤する。

そのことに気づいたのはつい最近のことだ。

私は人間好きで、どんな人でも愛せると思ってきた。他人にひどいことをされて憎むこともしない。その上自分も肯定できる。それだけ見れば健全な自尊心を持っているように見える。
しかし世界に対し、根源的な恨みを抱えている。
攻撃性を秘めている。
それに直面したとき、私は自分の何が病んでいるのか、少しわかった。

そもそもなぜ他人は私を「承認するに値しない」のか。
もし私を「承認するに値する人間」がいるとすれば、それはどんな人間なのか。
私は一体、何を理解されたいのか。
抑圧してきた「本当の私」はどんな姿なのか。
その問題に直面しないことには、健全な自尊心を持つことはできないだろう。
私は自己防衛機能を解除し、承認欲求のスイッチをオンにする。
誰かに理解され認められたい本当の私を、意識の上に目覚めさせる。
しかしそれはとても勇気の必要なことだ。

共依存からの脱却

私は今まで他人を
「私を承認するに値しない人間」
と思うことによって自分を守ってきた。

誰にも私の存在価値の有無を決める資格はない。
私の存在価値を認めているのは私だけだ。
相手の価値基準に惑わされてたまるか。
人間の存在価値を承認するのは私の側だ。

この考え方で他人と接していると、メンタルは最強になる。
誉められてもけなされても、それは相手が私に期待する人間像の説明としか思わない。

みんなが見つめているのは妄想だ。
本当の私を見ている人は誰もいない。
そう思うことで、承認欲求のスイッチをオフにしてきたのだった。

代わりに私は他人の承認欲求を満たすことで自分の価値を確かめた。
他人に許しを与えることで、私は他人に価値を決められる側でなく、他人の価値を決める側でいられる。
自信を抱かせるほどに、私はその人を「承認するに値する人間」として認められたことになる。


……しかしその考えは欺瞞だ。
所詮は自己防衛のための処世術。
所詮は関係をコントロールするための策略。

だって、私は他人を承認するとき、いつも他人の中に投影している私を見つめているだけなのだ。
私にとって共感とはそういうことだ。
私のほうこそ、本当の他人が見えていない。
他人を抱きしめるとき、私は自分を抱きしめている。

私はいつも誰かに「あなたが私の一番の理解者だ」と言われたくてたまらない。
それは、誰よりも私が自分の理解者を求めているからだ。

他人を愛する幸せは、私のそうした倒錯なのだ。

もう他人の中に自分を探るのはやめて、いい加減ダイレクトに自分自身と向き合わなければいけないと思っている。
私は私を認めたいし、私の理解者になりたいのだから。

ジェンダー逸脱と嗜癖

今日、『酒害者と回復活動』松下武志(2007)を読んでいて驚いた。なんと、アルコール依存症の夫の治療に非協力的な妻が多いのは、女性の職場進出の増大、夫婦平等意識の定着、個人主義的価値観の浸透が原因であり、女性の自立が推奨される時代になったせいで妻は夫に過度の自立を求めるようになったからなのだという。
たしか、5年前ほど前に読んだ『アルコホリズムの社会学』野口祐二(1996)では、「夫を支える妻」という女性役割に適応するために妻がわざと夫のアルコール依存の回復を拒み、のんだくれの夫に尽くすことによって自らの存在価値を確かめようとする無意識の共依存関係について書かれていた。妻の献身が、いつも夫の回復のためになるとは限らないはずだ。

興味深いのは、松下がこの女性の職場進出と夫婦平等意識を夫の治療への妻の非協力だけでなく、女性のアルコール依存症の原因としても指摘している点である。男性と同じ扱いをされることで女性も男性と同じ特有の病になるという指摘は、つまりは男性役割による苦悩がアルコール依存症を引き起こすと言いたいのだと読み替えられる。
しかし、松下は女性役割による苦悩もアルコール依存症を引き起こすということを、以下のようにはっきりと指摘している。「女性が家庭や社会の中で「女性役割」を上手にこなせないために生じる不快感、苦痛感、喪失感等を緩和しようとして精神安定剤のようにアルコールを常用し、精神的・肉体的にそれに依存するようになるパターンがみてとれる。」

つまり嗜癖の回復を阻むものは、女性の職場進出の増大、夫婦平等意識の定着、個人主義的価値観の浸透などではなく、ジェンダーそのものの呪縛なのである。
ジェンダー嗜癖と深い関わりがあり、ジェンダー逸脱によって嗜癖者は苦しみ、ますます嗜癖する。それゆえに男らしさ・女らしさへの自信の回復から当人が救われるということもあるだろうし、ジェンダーにとらわれないことを選択して救われることもあるだろう。

女性の職場進出の増大、夫婦平等意識の定着が原因で妻は夫に過度の自立を求めるようになった、という説は、「そのことで妻の協力が得られないと男として傷つく」から嗜癖してしまう、と読み替えられる。女性役割からの逸脱に苦しむ女性がアルコール依存症になるように、こうした男性役割からの逸脱を感じることは男性の嗜癖につながるということだ。夫婦平等意識が嗜癖の回復を妨げるなどという偏った説が生まれるのは、日本のアルコール依存症者の自助グループに参加する人のほとんどが男性であるためだろう。

実のところ、妻が夫の治療のための協力を拒む理由は、アルコール依存症者の家族もまた病んでいるということを否認したいからではないか。アルコール依存症者がその烙印を恐れて病を否認するように、家族も病を否認したいのではないか。まさに松下のいうように「家族の中でほんとうに病気なのは夫であり、ほかの家族は、少なくとも妻である自分は病気ではないという意識」がそこにあるのだ。
回復に携わる人間が、アルコール依存症者の妻に対して「回復治療に協力することが妻としての役割だ」などという意識を持てば、妻はますます病を否認し病にとりこまれていくだろう。そうした役割規範への不適応を自覚することこそが、人を嗜癖に追い込むのだ。彼女たちは今まで、尽くしても尽くしてもかえって夫の病を治すどころか無意識的に支えてきたことに気づいていない。献身的でないはずがない。日本の自助グループで妻が協力を拒むことが多く、家族ぐるみの治療が上手くいかないのも納得できる。

謙虚な自尊心と卑屈な慢心

最近の私は、いつもより説教臭くなったり上から目線になったり自慢をしたり、他人に押し付けがましい態度をとるようになっていた。

それは最近の私にむしろ自信がないということの表れなのだと思う。
自己防衛のために卑屈な慢心に巣くわれている。

健全な自尊心があって、意志が強ければ、いちいち他人に認めてもらおうと自分を誇示する必要はない。しっかりした理性があれば他人の話も主体的に価値判断できて面白くなるはずだ。自分がブレているから人の話もどう聞いたらいいかわからなくなっているのだ。

「成長」のために必要なのは謙虚な自尊心だと、痛いほど感じるこの頃。

コミュニケーション

お人好しの他人につまらない愚痴を延々と聞かせるのがコミュニケーションの基本になってしまったら、私はもうおしまいだ。
お互いの話題に興味を持って面白いと思えるのが理想的なコミュニケーションだ。

自分の話を他人が面白く感じるように伝えたほうがいいし、他人の話にも魅力をみつけられたほうが、人間関係は実りあるものになる。
つまらないなと思いながら相槌を打ったり、相手が聞いてないのに喋り続けるのは無駄な時間でしかない。

しかし最近私は誰の話にも興味が持てない。
何もかもがつまらなく感じてしまう。
他人に面白いと思わせる気もない。

このままだと腐りそうな感じがする。
私はどんなゴミみたいな人間にも興味をもって魅力をみつけられる人でありたい。
誰のことも心から好きでいたい。
本当の自己肯定感を他人に与えられなければ、自分の言うことにも耳を傾けてもらえない。
相手を自分の価値観に引き寄せて本気で肯定し承認するところから、啓蒙が可能になる。
私の考え方を認めさせ相手を説得し変えることができるようになる。

だから無闇になんでもただ肯定して嘘でも頷くような、そういういい加減なことはしたくないのだ。
それは私もつまらない価値を感じさせない人間になるということだ。