恋愛ってなんだろう

ヒモに金を払うだけの価値を見出だせなくなって追い出したのが7月。

9月に再び彼が家に来てまた同棲したいという雰囲気を出してきて、お互いに話し合いをした。
私は「あなたが一緒に暮らすことを要求するならこちらの条件も飲んでもらわないと困る」「今のあなたには金を払うだけの価値を見出だせない」ということを伝えた。
彼には「要求なんかしてない。うぬぼれるな。」「理屈っぽいことは今はどうでもいい。あなたが俺と一緒にいたいとおもうのか。話はそれからだ。」と言われた。
「本当に一緒にいたくないなら話し合いをわざわざしない」と言ったら、「はっきりしろ。一緒にいたいのかいたくないのかどうなんだ。」と詰められたので「一緒にいたいよ。」と答えたら付き合うことになった。
そのときは嬉しかった。

「俺は人を好きになるとかよくわからないけれど、あなたとは一緒にいたいと思った。これから恋愛を学んでいくから付き合いたい。」
というようなことを言われて、本当に嬉しかった
。でもそれは一種の所有欲を満たすために私が必死だっただけなのかもしれない。

お金の関係から恋人関係になったことで、「この人は私のことを好きじゃないのに、私がお願いして一緒にいてもらっている」という申し訳ない気持ちや感謝の気持ちは減退した。
今の彼は私のためにサービスを与え労働意欲を向上させてくれるとは思えなくなったので、金を出して得たいような価値は見出だせない。

でもヒモは相変わらず私のことは好きじゃないし、何より歩み寄って理解する気もない。そういうところも個人的に好きなので構わないのだが、それが私にとって恋愛といえるのかというとやはり今までとは違う。そうなるとお互いの結節点がよくわからなくなって関係が不安定に思える。
彼は私のことを「すべてを受け入れてくれる理解者」「自分のすべてを愛していて夢中になっている女」というように認識しているし、そうなることを期待している。理解者だと思ってくれるのは嬉しい。でもそこまで私に愛されているという信頼を寄せられることが私は正直重く感じる。

私が彼に見出だす価値はやはりプレイメイトとしての素質、サディストの才能。あとは旅人としての好奇心。彼が何を求めて日本を旅立ち、世界を見て何を感じとるのか気になっている。そして同じひとつの美学を生きているということだ。
しかし、互いに興味を持って歩み寄る姿勢を持てなかったり、会話を通じてお互いに理解するということができないのは、私にとっては虚しさがある。
やっぱりそれがないと、恋愛というのは少し違和感がある。

でもそもそも恋愛にそういうものを求めることが間違っているのかもしれない。
私は誰かとすべてを理解しあいたいという願望を抱えてきた。それは一般的な恋愛というかたちでなくてもかまわなかったのだけれど、私はその願望を自分のなかで「恋愛」と呼んできた。

彼は完全な性的対称、客体としての「異性」という感じがある。彼は頭は悪いけど外見は美しくて愛嬌もあって本当に魅惑的な男の子だ。でも「理解者」にはなれない。
まず「理解者」に「異性」としての要素を求めるのがそもそもの矛盾なのかもしれない。
「知っていると想定される他者」はもういない。
もしかすると今が本来の意味の恋愛なんだろうか。

希望はいらない

夏の間、私は無理に自己価値を信じ自己肯定しようとすることをやめた。
健全に他人を愛し他人に愛される関係を目指すこともやめた。
そのことでひとつの不安から脱し、楽になった。

私は自分を信じてなんかいないし、むしろ自分を疑うことでしか自分の存在を感じられない。
他人を正しく愛する方法も、他人に愛されたい気持ちも理解できないし、消費し消費される関係しか実感できない。
でもそれが自然なことであり、違和感のない現実なのだ。

大切なのは、見えるものを見、知っていることを知ることだ。
今起きている問題に気づくこと。
現実を認識し、状況を理解すること。
そこからしか何も始まらないのだ。
実感のない夢や希望は救いになるどころか、足かせにしかならない。

たぶん私の目的は個人的な苦悩を解消することであって、幸福になることではないのかもしれない。

自分を肯定すること
自分を信じること
他人を愛すること
他人に愛されること
社会に必要とされること
目的を目指すこと
理想を抱くこと

こうしたポジティブな能動性が、時々恐ろしく虚しいものに思える。
それはこうした希望に満ちた言葉が人々を社会に順応させるための洗脳の道具になりがちだからというのもあるし、短絡的に目的を設定し空回りすることで本来解決すべき問題が先伸ばしにされるからだ。

前に進むためには、今ここにある自分の苦しみを見つめなければならない。
それは易々と希望を語ることより、ずっと難しい。

まずは自分の苦しみを受け入れ理解すること。
そしてそれを乗り越えること。
それがリアルだ。

希望は、そのずっと先にある空虚だ。

新たなパートナー

新たなパートナーができた。
恋人という表現も、彼氏という表現も、パートナーというのも正直しっくりこない。
お付き合いすることをただ目出度いと喜ぶのには違和感を覚える。

世間的な恋愛の観念にとらわれて自分を見失うことなく、私が彼を特別な存在として必要としているという確かな実感をいつも忘れずに捉えていこうと思う。

彼とは共感し合うために無理をすることなく、違うところが違うまま程良い距離感で共生したい。
変な恋愛ごっこをして口先の愛を語り合うような真似は絶対にしない。
当然、結婚はしないし子供は作らない。
そんなことよりも私たちには大事なことがある。

私たちはこれまでもひとつの同じ感性、ひとつの美学を共有してきた。
大事なことはそれだけで、あとはどうでもいい。

これからはさらに、お互いの目的に確証を持てる。
そういう関係になるだろう。


決意表明は以上。

人間関係を消費する虚しさ

この2日間くらいで、人間関係を消費することの虚しさを、さらに強く実感するようなことがあった。

私は人間が好きだ。
人間に執着しているし、人間にしか希望はない。

たしかに去年から夢中になっていた恋愛ごっこは楽しかった。彼は私に生きる意味を与えてくれたし、言葉にならない感性の部分でたまに通じあうことができた。考えすぎて自分の感情が見えなくなりがちな私に、彼は何が美しいのかを教えてくれるときがある。
友人の相談に乗ることも私に希望を与えてくれる。相談に乗る中で、曖昧だった相手の意思が話しながら定まっていき、心が少しでも軽くなるのを感じるのはとても気持ちが良い。

しかし、他人の夢を応援するために自分の時間を費やすことや、友人たちの愚痴やお遊びに過剰に付き合うことや、相手の心の弱さに気遣って媚びなければいけない関係を通じて人間を消費することにはだいぶ疲れてきた。

私は自分にとっての生産性を感じない関係は好きじゃない。
例えは悪いかもしれないが、私は道端で偶然拾った石ころに少しの輝きを見出だして丁寧に磨くような関係を築いてきた。磨くのをやめたらそれがすべてただの石ころに見えてしまうのが怖くて必要以上に磨いた。でもこれからは磨いてもなかなか輝かない石ころには過剰に構わないし、きれいな石ころではなく宝石のあるような場所を旅することにする。


私の人間を消費する方法はコミュニケーションに偏りすぎている。
人間を知る方法は直接的なコミュニケーションだけとは限らない。人間が表現するもののほうが、人間より人間ついて多く語ることもある。

私は人間を惑星のようなものだと感じるときがある。人を好きになるとこの星に着陸して世界中を探索したいと思う。そのためには人の作ったものに触れることのほうが、近道なのかもしれない。

これまでも私は定期的に人間アレルギーを起こしていた。
人間アレルギーを起こすと、今まで作品ですら楽しめなくなっていた。できるだけ製作に携わる人間が少なく、登場人物が少なく、独白が中心で他人との関わりも希薄な作品を探して見てもそれでも人間について書かれていることが虚しくなったりした。素晴らしい作品でも作者がどんな人か気になって不安になったり、どこまでいっても人間関係から逃げらないおぞましさを感じたりしていた。

でも、今なら少し違う見方ができるような気がする。

とりあえずニートひきこもり生活も1ヶ月すぎた。
どうにかこれから充実したものにならないと、困る。

消費社会過剰適合者

前回ブログを更新してから何日間か、もやもやした違和感と不安があった。
その原因は

「私には健全な自尊心が必要なのか」
「私は本当の愛を求めているのか」

という疑問とともに沸いてきた。
自分の心に問えば問うほど、欲しいという実感がない。そもそも、「健全な自尊心」も「本当の愛」も、まるでイメージできない。わからないものを欲しいと思う気持ちもわからないのだ。

私は他人に愛され助けられたこともあるし、苦しめられたこともある。
同じように私は誰かを愛することで助けたり苦しめたりしただろう。
私は「誰にも大切にされなかった」と言う資格はない。人間嫌いだと宣言できる自信もない。

しかし、私が与えられたり与えてきた愛は、大して美しくもないし尊くもない、という感覚には少しだけ自信が持てる。
おそらく私は他人に消費されている実感しかないし、消費される以外の愛され方がピンと来ないので、他人を消費する以外の愛し方を知らない。
少なくともそれは「健全な自尊心」や「本当の愛」からは遠いものだろう。

私は自分自身の存在を、使い捨てられるものとしか思えない。
そんな私が実感できる救いは、消費されてきた分だけ消費することだ。

人間は貪り尽くすものだと思っている。
人を好きになることは、人を貪り尽くし使い果たすことと同じように感じる。
前回の日記に書いたように、承認されることを拒絶し他人の承認欲求を満たし、「価値付けられる」側から「価値付ける」側に立とうとするのも、消費する側であることを実感するためだろう。
私はときどき愛することと恨むことの区別がつかなくなるのだが、それはこのような感覚が原因だろう。
私にとって、愛することはそれ自体、加虐だという自覚があるのだ。

それは逆に、私が愛される=消費されることを被虐だと感じているということでもある。
そのことを私は恨んでいる。
つまり、自分が受けた暴力を他人に与えて満足している。

アンウィルソンシェフは『嗜癖する社会』の中で、「見えるものを見ること、知っていることを知ること」の重要性について書いていた。
私が考えるべきなのは見えないし知らない「健全な自尊心」や「本当の愛」についてではなく、消費され消費することしか愛の在り方がわからない、という現実についてである。

そのことに気づいたとき、私は少しだけ襲ってくる無力感から解放され、楽になった。

肯定されたい自己とは

「本当の私」とはどんな姿なのか。
理解され認められたい自分とは何なのか。
それを明らかにするには、抑圧してきた世界に対する不満と期待を自覚する必要がある。
それは普段は意識の上に登らないが、自身の行動原理の根本に関わる問題だ。

「人間なんか嫌いだ。どうせ見捨てられる。」
という人は、人間に見捨てられないことを期待しているからこうした不満を言う。
「神様なんかいないよ。救ってくれないし。」
という人は神様に救われることを期待しているからこうした不満を言う。

悲観的になったり否定的になったり絶望したりするのは、期待の大きさの表れであったりする。
しかし、その期待の内容がもし過剰なものや現実離れしたものであったとしても、当人はそれを与えられるべき報いだと確かに実感し、信じている。

私が理解され認められたい「本当の私」も、おそらくそういったものだ。

「本当の私」と向き合うために自己防衛機能の鎧を捨てた私は、急に無力になった。
今まで他人に否定されるほど沸いてきた闘争心にも似た自信が、まったく感じられない。

むしろ自分の意思が消えてなくなるような感じがする。
自分だけは自分を認めているなんて嘘だったのかもしれない、「本当の私」はからっぽだったのかもしれない、と思うほど自分の存在に実感がない。
自分自身に何の魅力も感じていない。
このままだと廃人になってしまうかもしれない。
他人から逃げた結果自分からも逃げてこのままだと精神的に死ぬような気がしている。
本当にすべてのことに自信が持てない。

新たな勇気が必要だ。

私は世界に対して抱いていた不満と期待をまだ抑圧したままでいる。
それは理不尽で幼稚な要求かもしれない。
しかし、その不満と期待を自覚しないことには、「本当の私」の意思は見えてこない。
肯定されたい自己はわからない。

私を無価値で無意味な存在だとする世界を、否定する勇気がない。
その勇気を出さなければ本当の自信は沸いてこない。
まだ切り替えの努力が足りないのだ。

私を承認する資格

「他人を受け入れ理解し愛を与える」
その努力は私の生きる意味だった。

私に受け入れられ理解され愛されていると他人が実感することこそが、私のプライドを満たした。
しかし、前の日記にも書いたように、それは価値付けされる側からする側になるための策略であり、善意というより自己防衛の方法でしかない。
つまり、相手は私を「承認するに値しない人間」であり、私は相手を「承認するに値する人間」であるという優位性の確認でもある。

しかしこうした関係は必ず破綻する。
私は相手に自分の弱さを投影し、自分のように相手を愛する。自分がかつてそうされたかったように、受け入れ、理解する努力をする。それと同時に、相手に自分と同じ苦しみを与えたくなる。それは、全人類にとって私が無価値であるように、その人も無価値であることを思い知らせたいという、その人にとって重要で大切なものが台無しになってほしいという裏切りの願望だ。

私はいつも大好きで大切なはずの人の挫折と破滅を願っている。
そんな自分に普段は気づかないようにしている。
しかし他人との関係が深くなればなるほどその願望と戦わなくてはいけなくなる。
相手の成功と幸せを願う自分でありたいという意識と、相手の挫折と破滅を願う衝動が葛藤する。

そのことに気づいたのはつい最近のことだ。

私は人間好きで、どんな人でも愛せると思ってきた。他人にひどいことをされて憎むこともしない。その上自分も肯定できる。それだけ見れば健全な自尊心を持っているように見える。
しかし世界に対し、根源的な恨みを抱えている。
攻撃性を秘めている。
それに直面したとき、私は自分の何が病んでいるのか、少しわかった。

そもそもなぜ他人は私を「承認するに値しない」のか。
もし私を「承認するに値する人間」がいるとすれば、それはどんな人間なのか。
私は一体、何を理解されたいのか。
抑圧してきた「本当の私」はどんな姿なのか。
その問題に直面しないことには、健全な自尊心を持つことはできないだろう。
私は自己防衛機能を解除し、承認欲求のスイッチをオンにする。
誰かに理解され認められたい本当の私を、意識の上に目覚めさせる。
しかしそれはとても勇気の必要なことだ。