謙虚な自尊心と卑屈な慢心

最近の私は、いつもより説教臭くなったり上から目線になったり自慢をしたり、他人に押し付けがましい態度をとるようになっていた。

それは最近の私にむしろ自信がないということの表れなのだと思う。
自己防衛のために卑屈な慢心に巣くわれている。

健全な自尊心があって、意志が強ければ、いちいち他人に認めてもらおうと自分を誇示する必要はない。しっかりした理性があれば他人の話も主体的に価値判断できて面白くなるはずだ。自分がブレているから人の話もどう聞いたらいいかわからなくなっているのだ。

「成長」のために必要なのは謙虚な自尊心だと、痛いほど感じるこの頃。

コミュニケーション

お人好しの他人につまらない愚痴を延々と聞かせるのがコミュニケーションの基本になってしまったら、私はもうおしまいだ。
お互いの話題に興味を持って面白いと思えるのが理想的なコミュニケーションだ。

自分の話を他人が面白く感じるように伝えたほうがいいし、他人の話にも魅力をみつけられたほうが、人間関係は実りあるものになる。
つまらないなと思いながら相槌を打ったり、相手が聞いてないのに喋り続けるのは無駄な時間でしかない。

しかし最近私は誰の話にも興味が持てない。
何もかもがつまらなく感じてしまう。
他人に面白いと思わせる気もない。

このままだと腐りそうな感じがする。
私はどんなゴミみたいな人間にも興味をもって魅力をみつけられる人でありたい。
誰のことも心から好きでいたい。
本当の自己肯定感を他人に与えられなければ、自分の言うことにも耳を傾けてもらえない。
相手を自分の価値観に引き寄せて本気で肯定し承認するところから、啓蒙が可能になる。
私の考え方を認めさせ相手を説得し変えることができるようになる。

だから無闇になんでもただ肯定して嘘でも頷くような、そういういい加減なことはしたくないのだ。
それは私もつまらない価値を感じさせない人間になるということだ。

今年度の目標

社会学専攻だったせいか、政治界隈の友人が多かったからか、自分のある種のフェチのせいなのか、私はいつも自己正当化する癖がある。

私はとにかく何か判断決定するとき、理由はそれが正しいから、ということにしたがる。
しかし最近それでは自分を見失うような気がしてきた。

今は倫理的に生きるより、好きなように生きたい。
要するに自分の美学を追究したい。

個人的な理由で好きなものについて、何が好きで、なぜ好きになってしまうのか明らかにしていきたい。
今後は何かを選んだことを正当化しようとする前に、どこが好きでなぜ選んでしまうのかを考えるようにする。

25歳

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25歳は安藤喜一郎が死んだ年齢。
そして、母が私を産んだ年齢。
母は、25歳最後の日に私をひりだした。

安藤喜一郎が死んで4年。
私はあのときの彼と同じ25歳になった。

その記念に形式的にというか儀式的にというか、やろうと思っていることや、やっていることがいくつかある。

・安藤喜一郎が吸っていた煙草を日常的に吸う。
・命日の刺青をいれる。
・命日にブログを始める。

今、金沢にいるのもある種の儀式なのかもしれない。
どれもとくに意味のないことで、彼のためにはならないことだ。

でも私はそういう無意味な節目を必要としている。

とりあえずこれからここに日記を書き綴ろうと思う。