ジェンダー逸脱と嗜癖

今日、『酒害者と回復活動』松下武志(2007)を読んでいて驚いた。なんと、アルコール依存症の夫の治療に非協力的な妻が多いのは、女性の職場進出の増大、夫婦平等意識の定着、個人主義的価値観の浸透が原因であり、女性の自立が推奨される時代になったせいで妻は夫に過度の自立を求めるようになったからなのだという。
たしか、5年前ほど前に読んだ『アルコホリズムの社会学』野口祐二(1996)では、「夫を支える妻」という女性役割に適応するために妻がわざと夫のアルコール依存の回復を拒み、のんだくれの夫に尽くすことによって自らの存在価値を確かめようとする無意識の共依存関係について書かれていた。妻の献身が、いつも夫の回復のためになるとは限らないはずだ。

興味深いのは、松下がこの女性の職場進出と夫婦平等意識を夫の治療への妻の非協力だけでなく、女性のアルコール依存症の原因としても指摘している点である。男性と同じ扱いをされることで女性も男性と同じ特有の病になるという指摘は、つまりは男性役割による苦悩がアルコール依存症を引き起こすと言いたいのだと読み替えられる。
しかし、松下は女性役割による苦悩もアルコール依存症を引き起こすということを、以下のようにはっきりと指摘している。「女性が家庭や社会の中で「女性役割」を上手にこなせないために生じる不快感、苦痛感、喪失感等を緩和しようとして精神安定剤のようにアルコールを常用し、精神的・肉体的にそれに依存するようになるパターンがみてとれる。」

つまり嗜癖の回復を阻むものは、女性の職場進出の増大、夫婦平等意識の定着、個人主義的価値観の浸透などではなく、ジェンダーそのものの呪縛なのである。
ジェンダー嗜癖と深い関わりがあり、ジェンダー逸脱によって嗜癖者は苦しみ、ますます嗜癖する。それゆえに男らしさ・女らしさへの自信の回復から当人が救われるということもあるだろうし、ジェンダーにとらわれないことを選択して救われることもあるだろう。

女性の職場進出の増大、夫婦平等意識の定着が原因で妻は夫に過度の自立を求めるようになった、という説は、「そのことで妻の協力が得られないと男として傷つく」から嗜癖してしまう、と読み替えられる。女性役割からの逸脱に苦しむ女性がアルコール依存症になるように、こうした男性役割からの逸脱を感じることは男性の嗜癖につながるということだ。夫婦平等意識が嗜癖の回復を妨げるなどという偏った説が生まれるのは、日本のアルコール依存症者の自助グループに参加する人のほとんどが男性であるためだろう。

実のところ、妻が夫の治療のための協力を拒む理由は、アルコール依存症者の家族もまた病んでいるということを否認したいからではないか。アルコール依存症者がその烙印を恐れて病を否認するように、家族も病を否認したいのではないか。まさに松下のいうように「家族の中でほんとうに病気なのは夫であり、ほかの家族は、少なくとも妻である自分は病気ではないという意識」がそこにあるのだ。
回復に携わる人間が、アルコール依存症者の妻に対して「回復治療に協力することが妻としての役割だ」などという意識を持てば、妻はますます病を否認し病にとりこまれていくだろう。そうした役割規範への不適応を自覚することこそが、人を嗜癖に追い込むのだ。彼女たちは今まで、尽くしても尽くしてもかえって夫の病を治すどころか無意識的に支えてきたことに気づいていない。献身的でないはずがない。日本の自助グループで妻が協力を拒むことが多く、家族ぐるみの治療が上手くいかないのも納得できる。