愛される仕事

友人の日記を読んで、商品としての自分を愛されるということについて書きたくなったので、書いてみる。

私は前から、買春と子育ては似ていると思っていた。
生きるために愛されなければいけない、生きるために媚びなければいけない、という仕事は親子関係からはじまる。
養われている以上、親の愛情の中に潜む欲望や暴力を子供は拒否することができない。
それは娼婦が男の欲望や暴力を笑顔で受け入れなければ仕事にならないのとよく似ている。

そこに違いがあるとするならば、親の愛はどんな形でも世間一般的に感謝すべき尊いものとされるのに対し、買春夫の愛はその実、卑しく汚い暴力的な欲望でしかないということが周知の事実になっているということだ。

娼婦がレイプをされてお金ももらえず、買春夫に「セックスしたいということは愛しているということなのだから感謝して受け入れろ」「お前の愛に嘘偽りないならセックスしてお金を要求するのは間違っている」と言われたという話を聞けば、誰もがおかしいと感じるだろう。
しかし、そういうとんでもない理屈は、なぜか親子関係では平気でまかり通るものなのだ。
子供は愛情のかたちをした欲望や暴力を拒否できないばかりでなく、それに感謝することを社会に要求される。
親も家庭環境も自分で選べるわけでもない。そんな中で生かされるための媚びた振る舞い、偽りの商品としての自分に向けられる愛に、どうしてそんなに絶対的な感謝をしなければならないのかわからない。その愛に振り回されようが傷つけられようがなぜ受け入れなければならないのか。

むしろ、感謝されなければいけないのは、幻想上の可愛いコドモの姿を頑張って演じている子供なのだ。そんなこと言うような子供は育てる価値がないともし親が思うなら、それは無賃金労働をさせているのと同じだ。

私は絶対に母親になりたくないと思っているし、ずっと娼婦でいたいと思っている。
風俗なんかしたら親が悲しむ、とかよく言われるけれど私からしたら家庭にいて母親と一緒にいた時間は風俗の仕事とそんなに変わらなかった。
違うのは、母親は愛してきたから感謝しろと言ってくるが、風俗のお客さんは私の「仕事」を認め感謝してお金をくれるという点だ。
私は自分の努力に対しちゃんと報いがほしいし、苦しめられたのに恩を着せられるのは大嫌いだ。


かなり過激な考えだと思うけれどこれが私の本音であり、仕事への原動力なのだ。
私が仕事を愛しているのは抑圧している母親への恨みを解消できるからだと思っている。
でもそこまで母親を恨んでいる自分が、いちばん嫌だ。
私は母親を責めたくない。