人間関係を消費する虚しさ

この2日間くらいで、人間関係を消費することの虚しさを、さらに強く実感するようなことがあった。

私は人間が好きだ。
人間に執着しているし、人間にしか希望はない。

たしかに去年から夢中になっていた恋愛ごっこは楽しかった。彼は私に生きる意味を与えてくれたし、言葉にならない感性の部分でたまに通じあうことができた。考えすぎて自分の感情が見えなくなりがちな私に、彼は何が美しいのかを教えてくれるときがある。
友人の相談に乗ることも私に希望を与えてくれる。相談に乗る中で、曖昧だった相手の意思が話しながら定まっていき、心が少しでも軽くなるのを感じるのはとても気持ちが良い。

しかし、他人の夢を応援するために自分の時間を費やすことや、友人たちの愚痴やお遊びに過剰に付き合うことや、相手の心の弱さに気遣って媚びなければいけない関係を通じて人間を消費することにはだいぶ疲れてきた。

私は自分にとっての生産性を感じない関係は好きじゃない。
例えは悪いかもしれないが、私は道端で偶然拾った石ころに少しの輝きを見出だして丁寧に磨くような関係を築いてきた。磨くのをやめたらそれがすべてただの石ころに見えてしまうのが怖くて必要以上に磨いた。でもこれからは磨いてもなかなか輝かない石ころには過剰に構わないし、きれいな石ころではなく宝石のあるような場所を旅することにする。


私の人間を消費する方法はコミュニケーションに偏りすぎている。
人間を知る方法は直接的なコミュニケーションだけとは限らない。人間が表現するもののほうが、人間より人間ついて多く語ることもある。

私は人間を惑星のようなものだと感じるときがある。人を好きになるとこの星に着陸して世界中を探索したいと思う。そのためには人の作ったものに触れることのほうが、近道なのかもしれない。

これまでも私は定期的に人間アレルギーを起こしていた。
人間アレルギーを起こすと、今まで作品ですら楽しめなくなっていた。できるだけ製作に携わる人間が少なく、登場人物が少なく、独白が中心で他人との関わりも希薄な作品を探して見てもそれでも人間について書かれていることが虚しくなったりした。素晴らしい作品でも作者がどんな人か気になって不安になったり、どこまでいっても人間関係から逃げらないおぞましさを感じたりしていた。

でも、今なら少し違う見方ができるような気がする。

とりあえずニートひきこもり生活も1ヶ月すぎた。
どうにかこれから充実したものにならないと、困る。