人を傷つけないために

今まで私は自分の正当性を証明することにばかり頭を使って生きてきたが、いくら正論を主張しても聞く耳を持たれなかったら無意味だという虚しさを最近強く感じている。何を言うかも重要だが、それ以上にどう伝えるかが重要だ。

それはとくに度重なる友人関係のトラブルや、恋人との会話によって実感させられてきた。
社会的マイノリティでかつ精神疾患を抱える友人たち(もうメンヘラという軽い表現はウンザリだ)と誤解やすれ違いがあったときは、もう私には手の施しようがなく、本人が自分の抱える精神的な問題と時間をかけて向き合わなければずっと人間関係のトラブルは繰り返され続ける。
社会的マイノリティなら多様性に寛容だと思ったら大間違いで、社会的マイノリティであるからこそ自分の信奉する思想とプライドに固執しすぎて理解できない他者を必死に批難したりするものだ。それは何度も経験したことで、いつも相互理解のための努力は無駄になった。
そういうときにやるべきことは相手の間違いを訂正することよりまず相手の苦しみに寄り添うことである。相手にとっての現実とはその人が抱える苦しみのほかに何もないのだ。それだけがリアルなのだ。だから議論はもうやめることにした。

問題は精神疾患を抱える友人たちとのトラブルは、私との個人的なトラブルに留まらず関係のない人に悪影響や被害を及ぼすということだ。それでも怒らずにじっくり相手の苦悩を受け入れる忍耐力が必要だ。
私は恋人に対してもムキになって自分の意見をぶつけてしまうことがよくあるけれど、結局何を言ったとしても、私が彼をどんなことがあっても受け入れるという姿勢が何よりの説得力になっている。
安心感と自己肯定感がなければ人間は厳しい意見に耳を傾けることはできない。

相手は鏡のようなものだ。私が他人を受け入れることができなければ、私が自分自身を受け入れ肯定することもたぶんできない。とても難しい問題だ。
実は、「社会的マイノリティなら多様性に寛容だと思ったら大間違いで、社会的マイノリティであるからこそ自分の信奉する思想とプライドに固執しすぎて理解できない他者を必死に批難したりするものだ」というのは完全にブーメランで私自身のことでもある。

私の中の排外主義のようなものが、他人を拒絶している。だから私も精神的に病んだりするのだ。これは、否定されることへの恐怖からきている。恐怖は攻撃性に変わる。私は一体、何に怯えているのだろうか?