フェミニストはなぜ嫌われるのか

※2016年6月17日に書いた記事の再掲です。


私はよく、「恋愛がなくなれば性差別なんてなくなるのに……」とネットでもリアルでもつぶやいているのだが、それはちょっと不完全で曖昧な表現の仕方だ。
私がいいたいのは、「恋愛(幻想としてのジェンダー)がなくなれば性差別(ジェンダーによる抑圧)なんてなくなるのに……」ということなのだが、では実際に恋愛をなくそうとすれば恋愛をしたいという性的指向をもった多くの人を抑圧することになる。それこそ性差別以外の何ものでもないだろう。

ジェンダー問題にとらわれるあまりに思わずセクシャリティ(=性自認のあり方、性対象の選択
、性行動の傾向など)を抑圧してしまうという問題は、実はこのことに限らずよくあることで、根が深いのではないかと思っている。

たとえば、フェミニズムに抑圧されてると感じる女が存在するという問題も、セクシャリティの抑圧の問題なのではないだろうか。
フェミニズムは男性社会が強制してくる「女らしさ」という社会的役割からの脱却をことさらに訴えているように見えるのだが、なかにはそれを自らのセクシャリティ(女であり女らしくありたいという性自認、男を性対象として恋愛したいという選択など)の否定だと感じるシスジェンダー(身体的性別と性自認が完全に一致する)の女は多いだろう。
そうした女からすればフェミニストは自由を抑圧する存在だということになる。

また、私がたまにゲイの人たちに苦手意識を持つのも、同じように性差別に抗っていながらジェンダーからの解放とセクシャリティの解放を訴える運動は目指すところがまるで反対方向であるかのように感じるからだ。
ゲイのネコの人やネコよりの人たち、またはニューハーフの人たちは自らの「女らしくありたい」というセクシャリティを抑圧されて生きているので、「女らしさ」を強制されて抑圧されているフェミニスト寄りの私とは相性が悪い。彼(彼女)らから見るとフェミニストは自分が欲しくても手に入らないものを与えられ過ぎて騒いでいる贅沢な人間でしかない。

このようにフェミニズムは「女らしさ」からの脱却を訴える印象が強いあまりに「女らしくありたい」というセクシャリティを抑圧しているように思われる。言い換えれば、「女らしくあってはならない」というジェンダー(社会的性役割)を生産しているかのように思われてしまうのである。
逆もまたしかり。つまり、男性社会への批判を「男らしくありたい」というセクシャリティへの抑圧と感じ、「男らしくあってはならない」というジェンダーを生産していると感じるシスジェンダーの男もいる。
このことは、「フェミニズムはモテないブスやババアのひがみ」とか、「フェミニズムはただの男へのルサンチマン」といった偏見からくるスティグマの原因だといえるだろう。

こうした「男らしくあってはならない」「女らしくあってはならない」といった抑圧は、「逆性差別」「逆ジェンダー」とでもいえばいいのだろうか。
こうした抑圧が悲劇を生むこともある。
私は映画『実録連合赤軍』でしか知識はないが、連合赤軍永田洋子はまさにその抑圧の悲劇のヒロインといえるだろう。永田洋子は男と同等の革命戦死になるために、「女らしさ」を捨てなければならないと考え、「女らしくあってはならない」という抑圧に苦しんでいた。故に「女らしさ」にこだわり、化粧をする遠山美枝子に「総括」を迫り、死に至らしめた。
(連合赤軍ジェンダーについては大塚英二の『彼女たちの連合赤軍』が詳しいらしい。今度読んでみたい。)

ではどうすればいいのか?
だからといってヘテロノーマティビティ(異性愛者とその性役割を基準とした社会)に屈し、「男らしさ」「女らしさ」の抑圧に耐えるしかないというのか。
それに抗うことは「男らしくあってはならない」「女らしくあってはならない」という抑圧を作り出すことにしかならないというのか。

私は個性のない「男らしさ」「女らしさ」の記号を身にまといジェンダー幻想を演じあう恋愛にはウンザリだし、そんなものはしたくない。
では恋愛を完全に絶てるのかというとそうではない。
恋愛をしたい気持ちもあれば性欲もある。
それを否定すれば嘘になる。
いずれにせよ自らのセクシャリティから逃れることはできない。

重要なのはステレオタイプなフェミニズムのイメージに飲み込まれないことではないかと思っている。
マジョリティ(男)とマイノリティ(女)の二項対立の中で語られ、「差別する男」と「差別される女」の象徴的なイメージが固定化された議論にとらわれすぎるのを避けること。
差別に抗う上で最も大切なことは、マイノリティのなかの多様性を見失わないことだ。
どのような多様なセクシャリティが存在するか。どのように自由になれるか。そのためにジェンダーとどう向きあえばいいか。

こうしたことはエスニシティや民族差別に関しても言えることだし、あらゆることに言える。
差別を語ることによる差別の再生産をいかに避けるかということは、たぶん私が一生かけて向き合いたいテーマだ。
難しいことだし、答えは見えない。