バイの自己矛盾

前回は自称マゾヒストとしての自己矛盾について書いたが、今回は自称バイセクシャルであることについての自己矛盾について書きたい。

私はバイセクシャルだ。しかし、男性経験より女性経験が圧倒的に少ない。今までの恋人のほとんどが男性で、今も男性と付き合っていてヘテロな恋愛をしている。それでとくに恋愛に不自由しているとも思わない。わざわざカミングアウトしなければ、バイであることに気づく人もいないだろう。
とはいえ、日常生活に何の支障もないとはいえない。私の場合、バイであることの生きづらさは性愛の問題より性的嫌悪感の問題として表れるのだ。

女性への性的嫌悪感を初めて感じたのは、母親に生理用ナプキンの使い方を教わったときだった。自分の肉体に対してはそこまで嫌悪感はなかったが、成熟していく体を母親に見られるのには強い抵抗があった。なんとなく、実際の自分と期待される子供らしい自分のズレに居心地の悪さがあったのだと思う。
そのあとに女性への性的嫌悪感にぶつかったのは中学校の卒業旅行のときだった。公衆浴場でほかの女子生徒の裸を見ることや自分も裸になることにどこか耐え難いものを感じて、生理中だと嘘をついて個室の風呂場を借りた。
気分によるが、場合によっては体育の授業の前に他の女子生徒と着替えるのも嫌でトイレで着替えることもあった。
そのときにはもう、大人の男性より大人の女性に体を触られるほうが怖い、気持ち悪い、という感覚がなんとなくあった。

ところが私は単に女性が嫌いなわけではなく、一方で女性を恋愛対象として見ていた。
中学二年のときには好きな女子にふられ、失恋の苦しみで相手を殺そうかとも思った。その後、中学三年のときにひとつ下の後輩に告白され、はじめての彼女ができた。彼女と性的なこともした。私は女性を愛撫したいという欲望を持っているということを、このとき自覚した。いつも基本的に彼女が受け身で、私は愛撫し責めていた。

それから18歳になって、またほかの女性と肉体関係になったが、彼女とはどこかうまくいかなかった。私には彼女を愛撫したいという欲望はあったが、彼女に可愛がられたり愛撫されることにはどこか嫌悪感があった。どうやら私はタチなのだと思った。
でも私がMで彼女がSだったこともあり、なかなかこの違和感を伝えるのは難しかった。女性同士のSMプレイは、SとMの役割がそのままタチとネコの役割にスライドするほうがわかりやすい。タチなのにMというのはなんだかわかりづらいし、面倒だ。しかし私はそういう面倒な指向と嗜好の持ち主になってしまったようだった。

Mなのに下淫(自分より弱い立場だったり身分の低い相手に興奮する)な自己矛盾は生きる道を切り開いてくれたが、Mなのにタチな自己矛盾は生きづらさしか生まなかった。
私は同性でも生理的に受け付ける人と受け付けない人がいる。友達でも身体接触をしても平気な人とダメな人がいる。それは容姿や性格や雰囲気によるのだが、相手が傷つきそうだからそれを言い出しにくい。言い出せないのでとりあえず耐えるしかない。しかも男であればそこにセクハラの自覚が持てるところを、女性だとまったく想定していない。
さらに、私は小柄で気弱に見えるためか、好みでないタチの女性に期待を持たれてしまうことが多いし、Mだと公言していることもあり、いきなり体を触られてしまうことも多い。

現在、子供たちへのセクハラについての教育では、大人に「嫌な触られ方」をすることがセクハラだと教えているらしい。しかし、それをいったら母親が私に生理用ナプキンのつけ方を教えたのもセクハラになってしまう。それは無理がある気がする。

そもそも性的な嫌悪感とは何なのか?という疑問がわいてくる。
セクハラの問題が解決されない一因として、性的な嫌悪感とは何かという共通認識が存在しないということがあるような気がする。
自己決定権が侵害されているからセクハラはいけないというのはわかる。同意がなければセクハラになるというのもわかる。
でもそれ以前に、それをハラスメントと感じる嫌悪はどこから来るのだろうか。
多くのヘテロ女性は、なぜ女友達の前で平気で裸になれるのに、父親の前で裸になれないのか。
イケメンに触られても平気なのに、ブサメンに触られると嫌なのか。
なぜそういう理由でセクハラが認められるのか。
私には不思議でならない。

私はセクハラをやめろと主張したいというより、自分を知り、社会を知り、より生きやすい方法を模索したいし、そうするしかないのだ。