「やりたくないこと」を頑張る意味

頭の中の自分の声がうるさいので、メモ程度にまとめておく。

私の今の恋人の人生のモットーは、「好きなことを楽しむ!」「やりたいことをやる!」らしい。

そんな彼は2年前まで周囲の期待に応えることが自分のすべきことだと信じて生きていた。そのうち何のために生きているかわからなくなり、うつ状態になり、仕事をやめてしまった。それからは自宅にひきこもって自殺未遂を繰り返していた。

それが人生の転換点となり、いろいろあって今は「好きなことで生きる」という価値観に基づいて彼は彼なりに頑張っている。世間的に見ればそれは真面目なサラリーマンから風俗嬢のヒモの夢追い人に転落したことでしかないが、私はそれが彼の本当の意味での自立への歩みであり、成長だと信じている。

しかし、その選択は誰にでも簡単にできることではない。
我を通すことにはリスクがあるし、勇気が必要だ。

世の中には「やりたくないことをやる」ことに価値を見出だそうとする人たちがたくさんいる。周囲に押し付けられた「やりたくないこと」を期待に応えて頑張ることが推奨される。まったく生産性のない苦労を讃える声に溢れている。報われない努力や我慢が美徳のように言われている。
たとえばゆとり教育の導入なんかはたぶんそういう無駄なことをやめて効率良く勉強しようという主旨だったのだろう。そのことが「甘え」だとされて詰め込み教育が再び評価されてしまったのは、大人たちがやりたくないことを無理にやらされてきた時代を無意味にしたくなかったからではないかと思う。

やりたくないことを無理にやる自分を美化することで辛い現実を合理化する、という思考回路の人間は自分の周囲やインターネット上に溢れているように見える。
自称うつ病患者が溢れかえっているのもそのせいではないかと思う。うつ病患者に対する「怠けている」という偏見への反論としてよく「真面目すぎる」といった特徴が挙げられ、それに共感する声も見かける。
「真面目」と言われれば「怠けていない」ことになるからほっとする心理なのだろう。それに「真面目」というのは「怠けていない」どころか「頑張っている」ことを認めてくれるような表現でもあるから耳に心地良い。しかし、無理して頑張らなくても楽に結果を出せればそれに越したことはない。
なぜそこまでして苦労にこだわる必要があるのだろうか?

もし「やりたくないことをやる」ことに意味があるとすれば、「自分のやりたいこと」を犠牲にして「他人に求められること」「社会に求められること」を優先するからということになる。「やりたくないこと」をやっている人は利己的でなく利他的であるから良いというわけだ。
「やりたくないことをやる」ことにこだわる人たちは、経験則だが、だいたい「自分より家族のため」とか「世間に認められるため」とか言いたがる。とても他律的だ。そしてそういう人が心病むときはたいてい「皆のために頑張ってるのに皆が認めてくれない」「誰かのために頑張ってるのに誰かが認めてくれない」と言い出す。
私の母親はこういう人間の代表格だ。

私はアルコール依存症などの嗜癖に関する本を読んでいて、他律的な価値観で生きることと心の病には深い関係があることがわかった。
「やりたくないこと」を自分ではなく他人や世間のためにやって、それなのに他人や世間が認めてくれないとき、人間は何のために生きているのかわからなくなる。
そういう状態で「やりたくないこと」を頑張っている自分を評価しようとしても負の連鎖にしか陥らないわけで、何が本当に他人や世間のためになるのか、そして自分自身が本当は何をしたいのか、見直すしかない。
でもそれは自己存在の危機に陥るリスクのある、とても勇気の必要なことなのだ。
こういう「他律的な人間の心の闇」が、今後私が探りたいテーマの中心である。

それは私を苦しめた母親の苦しみの世界に飛び込んでいく作業になるだろう。