性犯罪加害者について

この数か月バタバタしていて読めていなかった雑誌「創」をまとめて読んだ。

きちんと通読はしていないけれど、気になるところを重点的に読んだ感じだ。

とくに興味深かったのは、11月号の性犯罪特集だ。

 

冒頭に「薬物依存と性犯罪はよく似た問題と構造を抱えている」とある。性犯罪も薬物のように、常習犯にとっては依存性が高い。

依存症の構造はアルコールや薬物などの物質への依存に限らず、DVや窃盗やセックスなど、行為にも当てはまる。性犯罪の加害者臨床においても、依存症治療の方法が活かせるのではないだろうか。

性犯罪で懲役13年を経て出所した樹月カインさんは、アルコールや薬物の依存症者のような、性犯罪加害の当事者による治療共同体を作りたいと考えているという。私は素直に素晴らしい試みだと思う。

 

アルコールや薬物の依存症者ですら、その治療は大きな困難を伴うものだが、性犯罪加害者の治療となるとさらに困難を伴うだろう。

たとえば、アルコール依存症自助グループが発案した依存症治療のための12のステップのひとつめ、「私たちはアルコールに対し無力であり、思い通りに生きていけなくなっていたことを認めた」を性犯罪にあてはめてしまうとどうなるだろう。

「私たちは性衝動に対し無力であり、思い通りに生きていけなくなっていたことを認めた」となってしまう。

それを認めなければ前に進むことはできないのだが、それを認めるというのは社会的にもとんでもないことであるし、本人にとっても自身への辱めにならざるをえない。

アルコールや薬物の依存症者が「10年やめた」と言うのと、性犯罪加害者が「10年やめた」と言うのとは、わけが違う。やめ続ける努力を認め合うとかいう以前に、性犯罪はやめて当たり前だからだ。しかし、やめられて当たり前なら最初から繰り返さずに済むわけで、現実はそんなに簡単な話ではない。

 

そこまでして性犯罪者を治療してどうする、と思われるかもしれない。

しかし、現状では治療も何もされていない性犯罪者が刑期を終えたら社会に出て野放しにされている。それがまず大問題ではないか。

だったら、一生刑務所に放り込めばいいとか、死刑にすればいいとかいう極論で解決したがる人も多いだろう。しかし、私は罪を犯した人を隔離するとか殺すとかいう安易な発想は社会のためにならないと思っている。

 

樹月カインさんは、刑務所の処遇について、次のように指摘している。

「考えてみれば、仮釈放や懲罰をちらつかせて受刑者を服従させる刑務所の処遇モデルは、暴力や脅迫、ワイロなどを用いて他者を性的に支配する性犯罪者の行動原理とどこか似ています。」

刑務所で過ごすことが、性犯罪者の治療になるどころか、むしろますます性犯罪を助長しているとすら考えられる。

虐待を受けた子供が親になって虐待をする傾向があることからもわかるように、強者に支配されるシステムの中で生きた者は、自分より弱い者を支配するようになる。実際、性犯罪加害者にはかつて性犯罪被害に遭った者も多いという。

何のための刑罰なのだろうか。そんなに無意味で、かつ性犯罪を助長する可能性もあることをするくらいなら、きちんと治療プログラムを充実させるべきではないか。

 

民族差別はまず、特定の民族を強姦魔や淫売婦に仕立て上げることから始まると聞いたことがあるが、性をめぐる烙印は、人間の尊厳を最も傷つける屈辱と根源的に関わっている。強姦は肉体だけでなく魂まで犯すという。なぜ性暴力は、そこまで特別な意味をもつのだろう。

だから私は性というものに興味があるし、それをめぐって傷ついたり狂ったりしていく人たちについてよく知りたい。そこには、私自身の根源的な苦悩を解く鍵があるような気がしている。